2011年5月28日土曜日

高山稲荷神社 part4

高山稲荷神社の草創については、もともと資料が乏しかったうえに、不幸にして明治二十六年に火災にあい、資料や文書ことごとく焼失してしまったため、詳らかになってはおりません。

創建についてはいくつか説があり、中には信ずるに足らないようなものもありましたが、一説には安倍・安東氏の草創だともいわれています。
安東氏は十三湊を拠点にして栄えた地方豪族でありますが、十三湊と陸路の往還において当所は交通の要害ともいえるべき場所であったので、ここに祈願所を築いたというものであります。

ただし、安倍・安東氏の頃には稲荷明神の祭祀は一般的ではなかったそうなので、当初は稲荷神を祀ったものではなかったといわれています。
天和四年(1684)に庄屋の小四郎が作成した牛潟村、柾子館の古地図でも、当時の現社地の名称は「三王坊山」ということになっています。
なんにしても、当地が古くから信仰の地であったことだけは間違いがないようです。

お稲荷さまは、江戸時代に入って牛潟地区が開墾され、人が定住しはじめたあたりから祀られるようになったのではないかとされています。
もともとこの地は肥沃でもなく、耕作には適さない土地でありましたから、それだけ五穀成就を祈る気持ちは強かったのでしょう。
また、古くからの霊地ということもあって、同所には徐々にお稲荷さまの小祠が建立されるようになったようです。

牛潟地区が開墾されはじめた頃の慶長年間(1596~1615)に、同所に住んでいた三五郎という人が建立したという「三五郎稲荷」というものがあります。
のちの天保年間(1830~1843)頃に、このお稲荷さまを熱心に信仰していた鳴海健太郎という人がおりました。
この鳴海家の一族に鳴海遺十郎という人がいて、京都まで上って伏見稲荷に参拝し、ついには高山正一位稲荷神社の位階を許されるまでになったそうです。

明治になると、神仏混淆仕分など様々な調査が行われるようになりました。
しかし、ここ高山稲荷神社はなぜか調査から漏れてしまい、神社明細帳に記載されず、そのために社格ももらえませんでした。
今後とも祭祀を続けていくためにはどうしても社格が欲しい、というわけで、明治五年にはじめて社格を与えてほしいとの嘆願書を県に提出しました。

しかし県から色よい返事はもらえず、その後もなんとか認めてもらおうと、境内を整備したり、書類の形式を整えたりしながら、明治二十三年までに実に五度にわたって県に申請をし続けたそうです。

そこへきて、先に触れたように社殿が火災によって全焼するという災難が降りかかりました。
これにはさすがに社格の申請を一時中断せざるをえず、まずは復旧が緊急の課題となりました。

なんとか仮社殿が完成し、書類を整えて、大正四年九月に「神社明細帳に編入の件」という書類を県に提出します。
これに対し大正五年八月二十五日に、ついに県知事から許可が出て、ようやく法人格を得ることとあいなりました。

といっても、厳密にはまだ社格を頂いていない「無格社」という社格です。
このへんは少しわかりづらいかもしれませんが、無格社というのは明治四年に太政官より布告された社格制度において、社格を制定する際に調査不足だったりして再調査が必要な場合や、社格を調整中の神社に対して便宜的に与えられる社格のことであります。
態度を保留してあるだけのなので、県社や郷社や村社より格が下とは限らないということを留意しておいてください。

というようなことが、工藤伊豆『高山稲荷神社史』(平成六年、高山稲荷神社社務所)に書かれてあったので、一応書いておきました。
まあ、社格制度そのものはすでに廃止されているので、もう無格社だろうが何だろうが関係ありません。
現在では法人格をいただいて、神社庁にも登録されている立派な神社の一つであります。

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