2011年6月17日金曜日

小金山神社の御祭神

さて、今日は小金山神社の御祭神について考えていきたいと思います。

小金山神社の現在の御祭神は、一説には大山祗命だともいわれていますが、金山彦神・金山姫神を祀っているといわれています。
この二神は、国生みの際に火の神を生んだ伊邪那美神が御陰を焼いて、病み臥せった時に吐いた吐瀉物から生まれたという神で、鉱山を神格化したものなのだそうです。
ちなみにこれは、宮城県の金華山にある黄金山神社の御祭神と一緒です。

一説に、津軽は往古金を産し、入内や新城は栄華を誇った奥州藤原氏の金の管理地だったといわれております。
また、ある古老の口碑には、その廃坑と思われる形跡が小金山神社の付近にあったともいい、また、奥州藤原氏が滅んだ際に、その一族が寒水沢発電所の付近に移り住んだ所が藤屋敷といわれていたことなども伝えられております。
そのため、大伴家持が「皇ぎの御代栄えんと東なる陸奥山に金子花咲く」と歌に詠んだ「金子花咲く」山は宮城県の金華山ではなく、津軽にあるという説もあるくらいです。

たしかに津軽はWikipediaの日本の鉱山の一覧などを参照するに、いくらかは金を産したようであります。
しかしながら、いまだ津軽に黄金文化が花開いたなどということは寡聞にして知らないので、おそらくそんなに金は採れなかったのではないかと思います。

少し前に、十三湊で金を用いた工芸品が見つかったという報道を聞きました。
十三湊には藤原秀衡の弟、秀栄が建立したという「壇林寺」があったとされ、出土した工芸品は平泉のものに酷似していたといいます。
このニュースなどは津軽と平泉を結ぶ画期的なものだと思いますが、しかし、この金具は平泉からもたらされたといわれているもので、とくに津軽で産したものを加工したということではありませんでした。

上記の理由から、まず入内のあたりになんらかの鉱山があったとしても、それは金の鉱脈ではなかったのではないかとわたしは思います。
古代において、金は「きん」ではなく「かね」で、鉄などの金属一般をさしたと思われますから、おそらく砂鉄か鉄鉱石のようなものを産したのではありますまいか。

といって、弘前市ならいざ知らず、青森市内で蕨手刀が見つかったとか、鉄器がどうとかいう話を聞いたことがないので、あまり自信はありません。

しかし、もともと資料の乏しい地方のことです。
今後、なんらかの発見がないとも言い切れませんし、古老の言う藤屋敷や鉱山の跡のように、まったく顧みられることなく、荒廃して痕跡が無くなってしまったものもあるのかもしれません。
ただわたくしとしては、小金山神社という古い社名と御祭神から、付近になんらかの鉱山があったのではないかと推察しているのでございます。

それで結局この小金山神社という社名がいつから使われていたのかというと、これがさっぱりわからないのでありました(^q^)
顔文字とか使っちゃった。

まあ、仮に鉱山があったとして、その痕跡が無くなるほど昔からあったということかもしれませんし、あるいは全然そうではないのかもしれません。
現時点ではなんとも言えないのが実情です。
何か金細工とか鉄製品とか見つかればいいのに。

追記(2011年7月6日)
鈴木政四郎『高田町誌』(昭和四十一年、郷土考古学研究同志会)によると、高田地区周辺ではいくらか鉱物が採れたそうです。
入内ではありませんが、たとえば高田の豆坂付近では泥褐鉄鉱核団(饅頭石)というものが、また野沢山では珪藻土と一部黄鉄鉱・黄銅鉱・硫黄などが、合子沢川から小畑ヶ沢付近の谷地では黄鉄鉱を採れたといいます。
戦時中には一時採掘が行われていたそうですが、量の少ないことと不便なことから、しだいに行われなくなったようです。
昔から採掘が行われていたのかどうかはわかりませんが、鉱物の種類が豊富であったことは間違いないらしく、黄鉄鉱などを見た昔の人が「黄金山」と称したのかもしれないな、などとも考えたりしています。

追記(2011年9月3日)
真弓常忠『古代の鉄と神々』(学生社、1997)という本を読んでみたところ、上記の泥褐鉄鉱核団(饅頭石)と同じものかはわかりませんが、褐鉄鉱を用いれば比較的容易に加工ができるとのこと。
褐鉄鉱は低温で加工できるので、大掛かりなタタラ場などは必要ないということですが、その場合は露天タタラなのでタタラ場の痕跡は見つからず、褐鉄鉱から作った製品も純度が低いために風化が早く、後世にまで残るものは少ないということです。

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