2011年10月17日月曜日

富士山 part6

御来光を拝んだあとに、姉と少しだけあたりを歩きました。
吉田ルートの山頂付近には富士山本宮浅間大社奥宮の末社である久須志神社があり、わたしの希望で、まずはそこに行ってみることになりました。

富士信仰については、富士山の成立や火山活動と密接に係わっているので説明するのがとても面倒なのですが、富士宮市上条の千居遺跡から縄文中期の遥拝祭祀の遺構が見つかっていることから、古くから信仰の対象になっていたことがうかがえると思います。
富士山は小御岳火山・古富士火山・新富士火山の三つからなりますが、そのうち最も新しい新富士火山は、約12000年前に活動を開始すると、約9000年前から4500年前までの休止期を挟み、以降も断続的に噴煙を上げました。
約2000年前からは寄生火山による活動が主体となり、これが平安時代末期から室町時代あたりまで続きます。
かつて富士山は、恐ろしいけれども常に頭上に白雪を戴いた崇高なる山として崇められ、その山に住まう神の名は「福慈神」、「不尽神」などと称されていたようですが、歴史時代に入り、火山活動が活発化した平安時代なると、山神の名は「浅間大神」や「浅間明神」として文献に現れるようになりました。
「アサマ」とは火山を意味する言葉だということです。
かつての「福慈神」は徐々に荒ぶる神としての性格を帯びていき、鎮め祀る対象として各地に神社が建立されるようになりました。
人が初めて富士山に登った時代は定かではありませんが、七~八世紀頃には修験者や僧侶らによって開拓的な登山が始まっていたようです。
山神は、鎌倉時代には「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」、南北朝時代や室町時代には「富士権現」などとも呼ばれるようになり、次第に仏教との習合が行われていったことがうかがえます。
約2000年前に始まった寄生火山による火山活動は室町時代に入るとほぼ沈静化し、これにより信仰登山がいちだんと盛んになりました。
このあとに、長谷川角行という修験道系の行者が現れます。
戦国時代末期に現れた角行は、加持祈祷を行うなど民衆の現世利益的な要求に応えながら布教をし、富士講の基礎を築いていきました。
江戸時代に入り、その教えを引き継いだ六代目の弟子の食行身禄は、呪術性を排除し、より日常的で実戦的な教説を説き、それによって富士信仰は民衆の間にも広がりをみせるようになりました。
江戸時代には、富士講などの集団登山のシステムが整えられたことや、ある程度経済的に余裕のある層も増えたことなどから、富士登山が一般人にも普及しはじめていきます。
しかし、徐々に広がりを見せていく富士講の勢力に危機感を持った幕府は、富士講に対して次第に制限を加えるようになり、幕末になると富士講そのものが禁止にされ、徐々に衰退していきました。
明治初年の神仏分離は富士山においても例外ではなく、それまで山にあった仏像・仏具は下山させられ、山内の仏教的な地名も改められました。

参考文献:小泉武栄「登山史のなかの富士山」(『富士山と日本人』所収)、平凡社『山梨県の地名』、同『静岡県の地名』

などと、久須志神社の説明をするためだけに長々と書いてしまいました。
結局、久須志神社の勧請の経緯などはよくわからなかったんですが、明治初年の神仏混淆廃止をうけて近くの薬師ヶ岳が久須志岳に改まったなどから判断するに、もともとは薬師如来を祀ったものを、仏体を廃してのちに久須志神社に改称したものではないかと思います。



場所が場所だけに、神社の造りは簡素でした。
神社の中には拝むための場所はなく、神職の人たちが金剛杖に焼印を押してくれたり、御朱印を押してくれたり、お守りを販売していたりします。
御朱印帳があったので、新たに御朱印集めを趣味にしてみようかしらんと思いましたが、まあいいやと思ってやめてしまいました。
姉は、子どもが生まれた友人にお守りを買っていました。



狛犬は右の阿形が玉取り、左の吽形が子取りになっています。
年代はわかりませんが、そんなに古いものではないでしょう。
物資を運ぶブルドーザー道を利用して運搬されたものでしょうか。

このあと火口を見たり、ガレ場で姉と石塚真一『岳』第1巻の表紙のマネなどをして遊びました。

今思えば、この時が一番楽しかったです。

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