2011年12月8日木曜日

八甲田周遊③

法量のイチョウを見たあとは、103号線を通って蔦温泉に行きました。
とくにここで何か見たかったというわけではありませんが、まだ昼飯を食べていなかったので、茶店的なところに何か食べるものがあればいいなと思ったからです。


すると、ちょうどうまい具合に土産物屋でお蕎麦を売っていたので、ここで山菜そばをいただきました。
注文する際に厨房をちらっと見たら、出汁は業務用の出来合いのものを使っているふうだったのに、こういうところで食べる蕎麦はどうしてああもおいしいのだろうと思う。山小屋のカレーとか、ドライブインのラーメンなんかも。

腹がふくれたので、そのあとは辺りを少し散策しました。


蔦温泉は、マタギの山田作右衛門が、子どもの頃に捨てられて山女となったツタ子という女に出会った際に見出した湯だと伝えられているそうで、『新撰陸奥国誌』にも「或伝ふ、昔ツタと云ふ女初て発見し湯守となりしより蔦ノ湯と名つくと」というふうにあります。
ツタ子は八戸の生まれといわれ、ために八戸からの湯治客は病の治癒が早いという噂が広まっていたらしく、実際に藩政時代の記録にも八戸からの湯治客の名前が多く記されていたそうです。

辺りを散策していると、ふと大町桂月の墓があるという案内が目に入ったので、ちょっと行ってみることにしました。
詳しくは存じ上げない人ですが、雅号の桂月という名前がわたしの下の名前に少し似ていたので、軽く興味をひかれたのです。
墓所は、蔦温泉の旅館から数百メートル離れた林の中にありました。


大町桂月(1869~1925)は高知出身の歌人・文筆家。
本名芳衞。雅号の桂月は月の名所である土佐の桂浜にちなむ。
わたくしの行きつけの市民図書館には桂月の書籍がなかったので、作家としての評価はできませんが、唯一あった高橋正著『評伝 大町桂月』という本を読んでみると、人としてはだめな部分もありつつも、それも含めてなかなかユニークな人物であったみたいです。

評伝によると、桂月が初めて青森を訪れたのは明治四十一年八月、五戸町出身のジャーナリスト鳥谷部春汀に十和田湖探勝を勧められたのがきっかけだったといわれています。
そこで十和田・奥入瀬の自然美にうたれた桂月は、十和田の魅力を伝える紀行文を発表し、奥州の秘境、十和田の名を全国に知らしめました。
十和田を愛し、たびたび蔦に長期逗留を重ねた桂月は、生涯で蔦を訪れること都合八回。最晩年にはついに本籍地を蔦に移すまでに至ったそうです。
過度のアルコール摂取から中毒になり、入院治療を受けていたこともある桂月ですが、終生酒はやめられず、酒害から胃潰瘍を患い、大正十四年に愛する蔦の地で最期を迎えることになりました。
男性的な土佐の「いごっそう」らしく、「おいらは悠然として酒を飲んで死ぬるのだ」と言って、死を恐れず最後は泰然と逝ったそうです。
辞世はかねてより作っておいた「陸奥国の十和田の山に血を吐いて 其儘死ぬは我は本望」「極楽に越ゆる峠の一やすみ 蔦の出で湯に身をば清めて」の二首で、戒名はこれまた用意していた「清文院桂月鉄脚居士」というもの。
旅を愛し、健脚だった桂月らしい戒名だと思います。
墓碑はここ蔦の地のほか、桂月が第二の故郷と言っていた東京の雑司ヶ谷墓地にもあるということです。

さて、桂月は生前、十和田に関するさまざまな紀行文を発表しただけではなく、乞われて十和田国立公園設定の請願文を書きました。
このことが導火線となり、桂月が亡くなって十二年目の昭和十一年に、正式に国立公園の指定が下されることとなりました。
まこと、今日の十和田観光が成り立っているのは桂月さんのおかげといって差し支えなく、青森にとっては大恩人といえる人だと思います。

0 件のコメント: