2012年2月28日火曜日

松陰神社の境内

松陰神社の手水舎の近くに、吉田松陰の像があります。


昨日も少し触れましたが、ここで、吉田松陰の生涯についてざっと説明しておきましょう。

吉田松陰は文政十三年(1830)八月四日、長門国萩近在の松本村で、長州藩下士杉百合之助常道の次男として生まれました。
五歳で他家を継いでいた叔父の吉田大助賢良の養子となり、翌年その叔父が亡くなると、これもやはり他家を継いでいた叔父、玉木文之進を後見人として吉田家を継ぐこととなりました。
吉田家は山鹿流の兵学を講ずる家柄で、松陰は叔父文之進の厳しい教育のもと、兵学を学びました。
のち嘉永三年(1850)、藩主の許可を得て九州に遊学。
その頃アヘン戦争の顛末を知り、国を守るためには流派にとらわれず、広く西洋の兵学も学ぶ必要があると考えるようになったといわれています。
翌四年には江戸に遊学し、佐久間象山に師事し西洋兵学を学びました。
さらに嘉永六年、松陰は二回目の江戸遊学に出発しますが、ちょうどその折に、浦賀に黒船が来航するという大事件に遭遇します。
米艦を視察し、日本に勝算がないことを悟った松陰は、さらに洋学への関心を深め、西洋兵学の師、象山に傾倒していったそうです。
いたずらな主戦論は国を滅ぼすと考え、まず第一に外国の事情に精通しなければならないと考えた松陰は、海外への渡航を計画し、黒船来航の翌月、長崎に寄港していたプチャーチン率いるロシア艦隊への乗船を企てます。
しかしあえなく失敗。
さらに安政元年(1854)、日米和親条約締結のため浦賀に再来航していた米艦に乗り込もうとして失敗し、獄に繋がれることとなりました。
翌年、出獄を許され萩の杉家(実家)で蟄居の身となりますが、その間に叔父文之進が開いていた私塾と同名の「松下村塾」と称する私塾を杉家の邸内に開き、近親や子弟に兵学や経学を指導するなどしていたようです。
吉田松陰が松下村塾で門下生に教えている間にも、アメリカ総領事ハリスが通商条約調印を迫ったり、将軍家の継嗣問題が持ち上がるなどして、日本をめぐる情勢は日に日に切迫していきました。
そんな中、大老に就任した井伊直弼は、衆望のあった一橋慶喜を退け紀州藩徳川慶福(家茂)を継嗣に内定させると、勅許を待たずに日米修好通商条約の調印を断行してしまいます。
井伊大老の政策についての評価はさまざまあるようですが、今はそこまで言及している余裕はありません。
個人的には、井伊大老にも松陰先生にも各々の立場や考え方というものがあり、それに基づいてなすべきだと思ったことをしたまでであろうと思います。
ともかくも、この井伊大老の決断に激怒した松陰先生は、それまで幕府を助け、公武の融和を図ろうと考えていた従来の態度を一変させ、幕府の違勅をなじり、激烈な言動をとるようになっていったといわれています。
松陰は藩主や塾生同志等に時局に対する意見書を送るなどし、また、直接行動として、老中間部詮勝の暗殺も計画しました。
いくらなんでもテロはいけません。
結果、これらの行動により松陰の考えは幕府を脅かすものとして投獄され、安政六年(1859)十月二十七日に伝馬町獄舎において処刑されることとなりました。

以下、当神社に祀られるまでの経緯は、先日の記事にある通りです。
回向院に埋葬された松陰先生の遺体は、死後四年目に現在の世田谷区若林に改葬され、その地に松陰神社が建立されました。
境内には、松陰先生のお墓が今も大切に保存されています。


歴史に「もしも」ということはなく、起こったことはすでに起こったことで、今さら変えようもありません。
評価は歴史が決めるともいいますが、井伊大老にしても松陰先生にしても、いまだにその人物に対しての評価が定まっていないように思われます。
両者とも多少強引と思われる節がなかったわけではありませんが、わたしは、どちらとも憂国の士であったというふうに思う。
しかし、結局こじれたまま理解しあえずに亡くなってしまったのが残念です。
今、両者の墓所が近い場所にあるのは、何かの縁でありましょう。

松陰先生をお祀りする同名の神社は山口県萩にもありますが、こちらは松陰先生の実家の杉家の人々と子弟たちの手によって明治二十三年(1890)に建立された小祠を前身とし、明治四十年に創建された神社だそうです。
萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾のレプリカが、世田谷の松陰神社境内にもありました。


案内板によると、教育の目的は①「君臣の義」(君主と臣下の間で守るべき正しい道)、②「花夷の弁」(日本と外国との違いを明確にすること)、③「奇傑非常の人」(人並み外れた優秀な人材)を育むこと、にあったといわれています。
松下村塾に集まった子弟は藩校で学ぶことができない藩の下士が多かったそうですが、松下村塾には身分の別なく誰でも入学でき、そこで松陰先生は、それぞれの個性や長所を伸ばす実際的な教育を実践しました。
松陰先生が松下村塾で教えていたのは、わずか二年半ほどであったといいますが、私塾でありながらその門下生は九十人にのぼり、高杉晋作や山縣有朋、伊藤博文など、のちに明治維新おいて大きな功績を残すことになる多くの人材を輩出しました。

境内には、毛利元昭、伊藤博文、木戸孝義ら、松陰先生を慕う多くの門下生たちによって奉納された石燈籠が並んでいます。

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