2013年1月11日金曜日

水天宮(中央区)の由緒

中央区日本橋蛎殻町二丁目に鎮座する水天宮は、安産・水中の失せ物探しにご利益ありとして、江戸の頃より崇敬を集めてきた神社で、わたしも昨年の夏頃に妹のために安産のお守りを買い求めた神社でありました。
妹に子供が生まれた記念に、今日は水天宮について書きたいと思います。

水天宮の創建は文化五年(1818)。
芝赤羽根町(現港区三田一丁目)にあった久留米藩有馬家上屋敷内に、当時の久留米藩主有馬頼徳公が、領内の水天宮本社の御分霊を神主に命じ、藩邸内に祀らせたのがはじまりであるといわれています。
ちなみに久留米の水天宮(尼御前社)は、今からおよそ七百年ほど前に、壇之浦の合戦ののち久留米付近に落ち延びた平家の女官の一人が、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をお祀りしたのがはじめで、水や子供にまつわる神社として今も崇敬が篤いのだそうです。

ご祭神は安徳天皇、建礼門院、二位の尼および天御中主大神。
二位の尼が幼い安徳天皇を抱き、「波の下にも都の候ぞ」と言って入水する場面は『平家物語』の中でもとりわけ哀切極まるシーンでございます。
日本人の精神構造として、かわいそうな死に方をした人や、ひどいことをして死なせてしまった人を丁重に祀らないと気がすまない、というか怖いらしいのですが、だったら初めから良心の呵責に耐えられないようなことをしなければいいのにと、その手の神社に参拝するたびにいつも思います。
社号からもわかるように、もとは仏教の水天を祀るところでもあったようですが、のちにそれが神道の天御中主大神に置き換えられたもようです。
いつ頃からそうなったのかは知りませんが、たぶん廃仏毀釈や神仏混淆廃止が行われた明治以降のことではないかと思います。

当社はもともと藩邸内にあったため、一般の人は参拝することができず、門外からお賽銭を投げて参拝をしたというふうに伝えられていますが、のち有馬公の計らいによって毎月五日の縁日に限り藩邸が開放され、庶民も参拝ができるようになったといわれています。
その当時、とある妊婦が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として使用し、安産を祈願したところ、非常に安産だったことから、人づてにこの御利益が広まり、非常に人気を得たということです。
今も、水天宮の安産のお守りは、「御子守帯(みすずおび)」という腹帯とセットで売られていました。わたしは買っただけで中を見ていませんが。
「御子守(みすず)」という名前は、たぶん「御鈴」にかけたものでしょう。

水天宮はその後、明治維新による藩邸の接収、ならびに明治四年(1872)に行われた有馬邸の移転に伴い青山へ移転となり、さらに翌五年十一月一日に現在の日本橋蠣殻町二丁目に移転となりました。
大正十二年(1912)に起きた関東大震災により被災しましたが、御神体は難を逃れ、その後、昭和五年流造の社殿が完成。
のち昭和四十二年に現在の権現造の社殿となりました。

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