2013年3月14日木曜日

江島神社①由緒

わたしが江の島に行った目的は、江島神社に参詣することでした。
江島神社は江島弁財天とも呼ばれ、安芸の厳島(宮島)、近江の竹生島とならぶ日本三大弁財天の一つにも数えられ、社宝の八臂弁財天象(重要文化財)・妙音弁財天象(通称裸弁天)はつとにその名を知られています。

当社の草創は、一説に欽明天皇十三年(552)。
社伝には「欽明天皇の御宇、神宣により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあり、 欽明天皇の勅命により、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが当社の始まりであるということが記されています。
文武天皇四年(700)には、役小角がこの岩屋に参篭して神感を受け、その後も泰澄、道智、弘法、安然、日蓮等の名僧が次々と行を練り高い御神徳を仰いだと伝えられており、詳細は不明ではありますが、相当古くから行者らが修行のために江の島に入り込んでいたことがうかがわれます。
その後、寿永元年(1182)四月に源頼朝が、文覚上人をしてこの島の巌窟に弁財天を勧請せしめた(『吾妻鏡』)といわれ、以来、鎌倉幕府及び武家の崇敬を広く受けるようになったといわれています。
なお、文覚により弁財天が勧請されたといわれていることから、社伝とは別に、この年(寿永元年)を当社の草創とする説もあるようです。
弁財天信仰が盛んになった江戸中期からは、江の島詣での熱が庶民の間でも高まり、たいへんな賑わいを見せたといわれています。
また、弁財天は音楽の神でもあることから、歌舞伎役者や芸能に関わる人たちの信仰も集め、境内には芸能関係者が奉納した石造物も多く残されているということです。

境内には奥津宮(御旅所・本宮)・中津宮(上之宮)・辺津宮(下之宮)の三宮があり、さらにこれとは別に当社発祥の地とされる御窟(岩屋)があります。
御窟は元々本宮であった場所ですが、のち奥津宮に遷座しました。
三宮はそれぞれ創建年代を異にします(※詳細は後述)。

往昔は仏教と習合して奉祀され、金亀山与願寺と号し、岩本坊・上ノ坊・下ノ坊という三つの別当院が三宮の管理をそれぞれ司っていました。
のち明治元年(1816)に神仏分離により別当院は廃され、御祭神を神道の宗像三女神を改め、社号を新たに江島神社としました。
御祭神は奥津宮に三女神の長女たる多紀理比売命を、中津宮に二女の市寸島比売命を、辺津宮に三女の田寸津比売命を祀ります。
神仏分離により祭神は神道の神様に改められましたが、今もなお江の島の弁財天として広く崇敬を集めています。

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