2013年3月26日火曜日

日光山輪王寺の由緒

前回も少し触れましたが、日光は勝道上人によって開かれました。
勝道上人は天平神護元年(766)九月、秀峰二荒山(男体山)に霊場を開かんと、弟子を伴い下野薬師寺を出発し、その翌年、二荒山登頂の足掛かりとするために四本龍寺という草庵を結びました。
この草案が現在の輪王寺の前身となっています。

上人がはじめて訪れた頃の二荒山は杣道すらない人跡未踏の地で、最初の挑戦はあえなく失敗に終わりますが、神護景雲元年(767)に女峰山の登頂に成功し、頂上に女峰権現を勧請しました。
続いて太郎山の登頂にも成功し、頂上に慈眼太郎明神を祀ります。
二荒山の登頂に成功したのは、最初の挑戦から十六年後の天応二年(782)三月、勝道四十八歳の時で、二荒山山頂に二荒山権現を祀り、これにより二荒山(日光)三社権現が形成されました。
上人はまた、中禅寺湖の発見者であるともいわれ、中禅寺湖畔に立木観音堂(現在の中禅寺、輪王寺別院)・日輪寺などを建立。大同三年(808)には四本龍寺の南に社(現在の二荒山神社)を建てて二荒山権現を勧請するなど、霊場としての日光山の規模を徐々に拡大していきました。
その後、弘仁年間(810~824)には満願寺の号を天皇より賜り、寺号を四本龍寺から同名称に改称しました。
上人はその後、弘仁八年(817)三月に八十三歳で没し、その跡は高弟の教旻が引き継いだといわれています。

なお、勝道上人の宗旨は、上人が華厳の滝の命名者であるとされていることから華厳宗だという説もあるそうですが、詳らかではないようです。
ただ、密教系・山岳信仰系の宗派であったことだけは間違いないでしょう。
現在の輪王寺の宗旨である天台宗との関係は、日光山第三代天台座主円仁の力によるところが大きいといわれています。
円仁は中禅寺湖南岸に薬師寺を創建。滝尾山麓に山王権現を勧請し、また恒例山南麓(現東照宮境内地)に常行堂・法華堂の二堂を創建しました。
さらに、本地垂迹説に基づき日光三社権現の本地三仏(二荒山権現=千手観音、女峰権現=阿弥陀如来、慈眼太郎明神=馬頭観音)の像を造り、本地神宮寺(現三仏堂、輪王寺本堂)を創建したと伝えられています。
が、円仁が唐からの帰国後に当地を訪れたという確証はなく、上記の内容に関しては伝承の域を出ていません。
推測ですが、密教や修験道などの山岳系の宗派が、時代と共に徐々に天台色を濃くしていったという感じでしょうか。

その後、天仁二年(1109)には宗円という人が日光山座主になりました。
宗円は下野を中心に栄えた有力氏族、宇都宮氏の氏祖といわれ、以後、宇都宮氏の出身者が別当を務めることになったといいます。
平安時代末期には、座主職をめぐり常陸国大方氏出身の隆宣と下野国那須氏出身の禅雲と対立。このあと、隆宣・禅雲はともに日光山座主となりますが、両氏族は鎌倉幕府の御家人筋の家系であることから、この頃から鎌倉幕府と日光山の結びつきが始まったそうです。
このあともまあいろいろあって、ちょっと面倒くさいので説明を省きますが、その後もたびたび日光山座主の座を争って有力氏族間での対立があり、何度かは堂社が焼失するなどの被害も出ているようです。
なお、氏族間の争乱により四本龍寺は焼失し、衰退。延応二年(1240)日光山二十三世弁覚により光明院が創立され、以後、衰退した四本龍寺に代わり本坊となりました。

日光山座主が天台座主を兼ねるようになったのは、公卿出身の源恵(聖恵とも)という人が最初だといわれており、その後も何度か日光山座主が天台座主を兼務することがあったようです。
天台座主というのはカトリックにおけるローマ法王みたいなものですから、その権力たるやたいへんなもので、有力氏族の出身者同士でその座を争ったというのも、むべなるかなという感じがします。
現在は政教分離の原則がありますが、民心を掌握するためには寺社政策が重要なことでしたから、かつては政治と宗教は車の両輪のようなものであり、鎌倉幕府以降、寺社の勢力は非常に大きなものになっていきました。
それに伴い、日光山の勢力も大きくなっていき、座主の座を争い氏族間での権力闘争にまで発展していくのですが、そのために、日光山は一時衰退の危機にさらされたこともありました。
日光山は壬生氏(宇都宮氏に仕えていたと伝えられる下野国の氏族)出身の権別当が多かったことから、戦国時代には壬生義雄に属して小田原北条氏に加担し、宇都宮氏・佐竹氏らが加担する豊臣秀吉勢と対立。
その後、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、寺領の多くが没収され、それにより寺領・堂宇ことごとく衰退したといわれています。

のち慶長十四年(1609)、徳川家康により日光領の安堵状が出されると、日光山の寺域の多くが旧に復しました。
その後、元和二年(1616)に家康が没すると、遺体は遺言により一時久能山に葬られたのち、日光山に移葬されることとなります。
家康を祀るために建てられたのが東照宮で、この社の創建を機に、日光山の復興も急ピッチで行われることとなりました。
日光山復興に力をふるったのが、天台僧にして「黒衣の宰相」と呼ばれた南光坊天海(慈眼大師)で、長い争乱のすえ荒廃していた本坊や旧宗徒の寺跡の復興などを行いました。
また、慶長十八年に日光山五十三世貫主となってからは天台宗の発展にも力を注ぎ、日光は天台宗一色に塗り替えられていったといわれています。
天海はその後寛永二十年(1643)に没し、慈眼大師の諡号を授けられ、東照宮にほど近い大黒山に埋葬されました。
さらにのち慶安四年(1651)、三代将軍家光が没した時にも大黒山に葬られ、この時には大猷院廟が建てられています。

日光山歴代の座主の中には皇族出身の僧も多く、そうした皇族出身の座主(住職)は法親王と呼ばれました。
後水尾天皇の皇子幸徳は得度して尊敬(のち守澄と称す)と名乗り、貞応三年(1654)日光山貫主ならびに東叡山寛永寺の住職として迎えられました。
明暦元年(1655)には天皇家より「輪王寺」の称号が勅許され、法親王は輪王寺宮門主または日光御門主と称されることになります。
これ以降は、日光山座主が日光山ならびに比叡山・東叡山を併せて統括し、天台座主として宗門を管領することが通例になりました。
このあとはしばらく何事も無く、明治に及びます。

明治になると、政府より神仏分離令が下されますが、日光における神仏分離は神仏混淆の長い歴史と東照宮の存続問題がからみ容易に行われず、明治四年(1871)一月に至ってようやく通達がされました。
これにより、僧侶の神勤禁止・院坊の統合・寺号を旧号の満願寺にすること・神地内の仏堂の移転などを求められます。
しかし同年五月に本坊が焼失し、財政的に逼迫したため移転が困難になったこと、さらに旧観の維持を日光町民が嘆願したことから、明治八年に移転した相輪橖、同十二年に移転した三仏堂を除き、ほかの堂塔については東照宮境内に永久に据え置かれることとなりました。
のち明治十六年、寺名を輪王寺に復します。
また同年支院の再興が許可されて、現在の一山十五院が整いました。

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