2013年3月7日木曜日

鎌倉大仏高徳院の由緒

高徳院は鎌倉市長谷四丁目2-28にあります。
平凡社『神奈川県の地名』によると、「大異山高徳院清浄泉寺と号し、浄土宗。もと光明院奥院で、通称は鎌倉大仏。高徳院は大仏の別当。本尊阿弥陀如来坐像(大仏)」というふうにあります。
が、開山、開基などについては詳らかになっておりません。

さて、高徳院といえば鎌倉大仏の名で知られる御本尊(正式には銅造阿弥陀如来坐像)が有名ですが、大仏ははじめ、建久六年(1195)に源頼朝によって発願されたものと伝えられています。
しかし大仏建立の発願が成就しないまま頼朝が没してしまったので、公の侍女であった稲多野局がその遺志を継いで発起人となり、僧浄光が勧進(資金集め)して造立されたといわれています。
民間の浄財を集めて建立されたもので、幕府や貴族が資金を出して作ったのではないともいわれていますが、その規模からいって、幕府の庇護のもとに建立されたものとみるのが自然であるようです。
大仏ははじめ木像で、暦仁元年(1238)に造立が開始されました。
仁治二年(1241)に大仏殿が上棟し、寛元元年(1243)には完成して、開眼供養が行われたといわれています。
のち宝治元年(1247)、大風によって大仏が倒れると、再び浄光が勧進聖となり資金集めに奔走し、建長四年(1252)から約十年の歳月をかけて現在の青銅製の像を鋳造。新たに大仏殿を造って安置ました。
大仏殿はその後、建武元年(1334)と応安二年(1369)にも大風によって倒れ、そのつど再興してきましたが、明応七年(1498)八月二十五日に起きた大地震と、それに伴う津波による流失ののちは再興せず、以後、大仏は露像として安置されることになったということです。
当地はたびたび地震に見舞われ、元禄十六年(1703)にも大地震により大仏の台座部分が壊れ、仏体が三尺ほど下に傾いたといいます。
その後、正徳二年(1712)に芝増上寺の僧祐天が大仏殿再興を発願し、江戸の野島新左衛門泰祐という者が浄財を喜捨して経済的に支援しました。
さまざまな事情のもとで、けっきょく大仏殿は再興されることはありませんでしたが、祐天・野島新左衛門泰祐らの行った数々の事績(大仏の鋳掛修理・仁王門と仁王像の建立・寺地の復興など)により、当寺では中興開山を祐天、中興開基を野島新左衛門泰祐としているそうです。
はじめは禅宗色の強かった当寺の宗旨が浄土宗に改められ、寺号を清浄泉寺としたのも祐天の頃だといわれています。
その後も数度の修理を経て近代に至ります。
大正十二年(1923)に起きた関東大震災では基壇前部が陥没し、仏体が前に移動しましたが、その翌年から台座を補強し、仏像を台座に固定する耐震構造の修復がなされ、同十四年には修理が完了しました。
昭和三十三年(1958)に国宝に指定されると、翌三十四年から文化財保護法による修理工事が始まり、同三十六年までに破損した頸部の補強、ならびに、これまでの耐震構造を改め新たに免震構造を施す修理がなされました。
彫刻としては神奈川県下唯一の国宝に指定されています。

御本尊(銅造阿弥陀如来坐像)を安置する本堂(大仏殿)が再興されぬままになっているので、当寺には寺務所のほかに特に建造物はありませんが、大仏の裏手に一つだけ小さなお堂がありました。
観月堂といって、もと朝鮮王宮にあったものを、大正十三年(1924)に杉野喜精氏が当院へ移築・寄進したものだといわれています。
内部には江戸後期の作品とみられる木造の観音菩薩立像が安置されており、鎌倉三十三観音霊場の二十三番札所ともなっているそうです。

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