2013年4月12日金曜日

日光二荒山神社①由緒

東照宮の奥宮を出たあとで、いったん五重塔がある場所に戻ります。
五重塔の右側には二荒山神社へ至る参道が伸びていますが、これは上新道と呼ばれるものです。


両脇に杉の巨樹が鬱蒼と生い茂り、とても雰囲気がいいところです。

二荒山神社に至る道はまだほかにもあって、東照宮の一の鳥居の脇あたりから伸びる下新道と、西参道と呼ばれる参道があります。
下新道と西参道は途中で合流し、拝殿の正面側に出ます。


けれどもまあ、別にどこから行っても差し支えありません。

二荒山神社は「ふたらさんじんじゃ」と読みますが、一説にこの「フタラ」とは、補陀落信仰の「フダラク」からきているといわれています。
補陀落というのは、観音菩薩が住んでいるといわれる浄土ですが、二荒山そのものが一種の異界として受けとめられ、信仰の対象となっていたようです。
補陀落浄土を探し求めて、ある者は決死の覚悟で海を渡り(補陀落渡海)、またある者は人跡未踏の深山に分け入りました。
日光開山の勝道上人は、こうした行者の一人だったのです。

天平神護元年(766)、二荒山を目指して下野薬師寺を出発した勝道上人は、翌神護景雲元年(767)に二荒山山麓に社殿を営み二荒山大神を奉斎しました。
のち天応二年(782)三月、上人四十八歳の時に二荒山登頂に初めて成功すると、二荒山山頂にも祠を建て、さらにその二年後の延暦三年(784)、中禅寺湖湖畔の二荒山山麓にも二荒山大神を奉斎しました。
これが二荒山神社の創始で、最初に建てられた二荒山山麓のものは本宮と呼ばれ、現在の二荒山神社本社の前身となっています。
二荒山山頂の祠は奥宮、中禅寺湖畔の祠は中宮祠といいます。

二荒山大神は二荒山の主峯男体山・女峰山・太郎山に坐す神で、日光三所権現ともいわれ、元は神仏混淆した形で拝祀されていました。
三山に坐す神はそれぞれ、男体山=大巳貴命、女峰山=田心姫神、太郎山=味耜高彦根命に当てはめられておりますが、二荒山大神が上記の神道の神に当てはめられるようになったのは十二世紀後半頃からだといわれています。
二荒山大神の本地仏がどうで、垂迹神がこうだという話はありますが、それは本地垂迹説が唱えられてからのことで、かつては山自体が神そのものとして崇拝され、そしてそれぞれの山の神霊を勧請した社殿が造営されたわけです。
なお、大巳貴命と田心姫神は夫婦で味耜高彦根命はその子どもにあたりますが、二荒山の神霊が親子であるという考えは、当地に古くからあったともいわれています。

社殿は大巳貴命を祀る本社と二荒山山頂の奥宮、中禅寺湖湖畔に中宮祠があることは先に述べた通りですが、さらに別宮として田心姫神を祀る瀧尾神社、味耜高彦根命を祀る本宮神社があり、これらを総称して二荒山神社と称します。
瀧尾神社の草創は詳らかではありませんが、弘仁十一年(820)弘法大師空海によって、女峰山の神を祀る神社として創建されたと伝えられています。
のち嘉祥三年(850)、もと二荒山山麓にあった本宮から恒例山南麓に二荒山大神の神霊を遷し、新宮(本社)が建てられることになりました。
そして本宮があった場所には太郎山の神霊が勧請され、こちらを本宮神社と称するようになったということです。

当社は創立以来、日光修験の興隆によって輪王寺とともに栄えてきました。
古来より皇室の崇敬厚く、延喜式名神大社にも名を連ね、下野国一の宮(※宇都宮二荒山神社とする説もある)として神階は正二位にまで進みました。
しかしその後、日光山が小田原北条氏に加担したため、北条氏の滅亡後、豊臣秀吉によって社領はすべて没収され、社殿・社領ともに一時荒廃します。
のち元和五年(1619)、東照宮創建に際して恒例山南麓から現在地に移遷。
この時に社殿はすべて徳川幕府によって建て替えられ、再び隆盛をみるようになりました。

明治四年(1871)の神仏分離令によって日光山は二社一寺に分離され、同六年、二荒山神社は国幣中社に列格しました。
その後、旧社格制度が廃止されたのちは、神社本庁の別表神社に指定。
平成十一年(1999)には、「日光の社寺」の一つとしてユネスコの世界遺産にも登録されています。

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