2013年4月25日木曜日

宇都宮二荒山神社①由緒

JR宇都宮駅の西口正面から西に、大通り(県道10号線)が伸びています。
その大通りを西に10分ほど歩くと、まもなく二荒山神社が見えてきます。
日光にも二荒山神社という神社があり、社名はよく似ていますが、あちらは「ふたらさんじんじゃ」と読むのに対し、こちらは「ふたあらやまじんじゃ」。
また由緒から見ても、両社の間には特に関係がないようです。

宇都宮二荒山神社の草創は詳らかではありませんが、一説には崇神天皇の第一皇子豊城入彦命が東国治定に向かった際、毛野国池辺郷荒尾崎の地(現下之宮、現社殿から南に200mほど離れた場所にある)に大和三輪山の神(大物主神)を祀ったことにはじまるといわれています。
さらにその後、仁徳天皇の御代、毛野国が上下二国(上野国・下野国)に分けられ、豊城入彦命の四世の孫奈良別王が下野の国造として下向した際、国を治めるにあたり、祖神である豊城入彦命を御祭神として勧請。さらに国土開拓の神大物主神と事代主神を併せ祀ったといわれています。
のち承和五年(838)、荒尾崎の地より臼ヶ峯の現在地に遷座。新たにこれを本社とし、旧来の社殿は下之宮と称されるようになりました。
以来、当社は郷土の祖神、総氏神として、また御祭神が武徳に優れているということから、武家ならびに庶民から崇敬を集めてきたと伝えられています。

二荒山神社の名の由来は定かではありませんが、少なくとも貞観年間(859~877)までは二荒神、または二荒神社などと称されていたようです。
またそれとは別に、古くから宇豆宮・宇都宮大明神などとも呼ばれていたようですが、その名前の由来も諸説紛々として、定かではありません。
神階は承和三年(836)に正五位下勲四等が叙せられて以降、順調に上がり、のち天慶年間(938~947)の平将門征討に際して藤原秀郷が当社に祈願し、将門の征討に成功したことから、ついには正一位勲一等を授かっています。
それ以来、当社は下野国一の宮として崇敬されてきたといわれています。
ただし、日光二荒山神社も下野国一の宮と称しており、『延喜式神名帳』に名神大社として「下野国河内郡 二荒山神社」が記載されてはいるものの、それが日光と宇都宮のどちらの二荒山神社をさすか、いまだ定説はないようです。

その後、前九年の役(1051~1062)に際し、宇都宮氏の祖である僧宗円が下野国に下向し、当社に戦勝を祈願しました。
その功績によって宗円は二荒山神社の社職を任じられ、以来、宇都宮氏が代々同社の社務職を司ってきたといわれています。
先述の通り、当社の御祭神は武徳にも優れていたため武家の信仰が篤く、藤原秀郷をはじめ源頼義、義家、頼朝ら、有力な武将もたびたび当社で戦勝祈願を行い、その御礼として宝物や社領の寄進、社殿改築などを受けてきました。
そして宇都宮氏は、社務を司る一方で在郷勢力らと手を結びながら勢力を拡大していき、その一族は国司や守護職などを歴任し、当地を支配しました。
その権威の後ろ盾が、当社の祭祀を司っているということであったのです。

ちなみに宇都宮という地名は二荒山神社=宇都宮に由来し、また宇都宮氏の姓は、当社の社職を任じられたことに由来するものだといわれています。
宇都宮二荒山神社は神紋に三つ巴を用いていますが、これは宇都宮氏の家紋と同じものであります。


その後、慶長二年(1597)に宇都宮氏は突如改易されます。
それによって、一時、社領ことごとくを没収されました。
と同時に、宇都宮氏は二荒山神社の社務職を解かれ、それ以降は同家とは関係のない神主・社家が置かれたものと思われます。
のち徳川家康により朱印状が安堵され、社領を回復。
元和五年(1619)には本多正純が宇都宮に入城し、新たに町割りをしました。
この時まで、宇都宮氏の居城であった宇都宮城の大手と二荒山神社は直結していましたが、濠を設けることでこれを遮断。さらに境内地を二つに分割して中央に道路を設け、本社と下之宮は分離されることになりました。
ちなみに、この時にできた道路というのが、先の県道10号線のことです。

当社は往古から神仏混淆して祭祀が行われてきたようですが、のち明治元年(1868)に戊辰戦争の兵火にかかり社殿が焼失したため、神仏分離令後も、ほかに神社のように仏体を排したり、神宮寺や別当を廃止したりすることもなく、そのまますんなりと神式に移行したもようです。
明治四年には国幣中社に列格。その後、日光二荒山神社との間で延喜式内社(延喜式に記載のある神社)の認定をめぐって騒動があり、一時式外社(延喜式に記載のない神社)に降格となりましたが、のち同十六年に復しています。
社格制度が廃止されたのちは神社本庁の別表神社となり、今日に至ります。

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