2013年4月5日金曜日

日光東照宮⑤由緒

陽明門をくぐると、拝殿がある区画に出ます。
が、その前にちょっと当社の由緒について書いてみましょう。

元和二年(1616)四月十七日に、徳川家康は七十五歳で死去しました。
その後、家康の遺体は「御体をば久能へ納、御葬礼をば増上寺にて申付、御位牌をば三川の大樹寺に立、一周忌を過候て以後、日光山に小キ堂をたて勧請し候へ」という遺言に従って、その日のうちに久能山に埋葬されました。
同年十月、南光坊天海・本多正純・東堂高虎らによって日光山内に社殿造営の地が定められ、幕府大工頭中井大和守正清が社殿を設計・施工。翌三年三月十五日に東照社社殿が竣工します。
天和三年四月四日、久能山を出発した家康の棺は、騎馬三百騎・雑兵一千人を伴い日光院座禅院に到着。同月八日に奥院(奥宮)に移されました。
そして同月十六日夜に本殿に奉遷。翌十七日に家康の一周忌にあたり、山王一実神道の流儀によって正遷宮の祭典が執行されました。
日光に家康を祀るのに際し、朝廷より下された神号は東照大権現。
これは南光坊天海が提案したもので、関東を照覧する「関八州の鎮守」を表すと同時に、東の天照大神(皇祖神)という意味も込められているといわれています。すなわち、徳川家は天皇家に比肩する存在だという意味であります。

創建時の社殿は、本殿・拝殿・瑞垣・回廊・楼門・本地堂・鳥居・御旅所・厩・仮殿・仮殿拝殿などでありました。
元和五年に幕府大工頭中井大和守正清が亡くなると、鈴木近江長次が工事を引き継ぎ、鐘楼・水盤舎・三神庫・経蔵を造営します。
さらに同八年には奥院木造宝塔・奥院唐門・奥院拝殿などが完成しました。
のち寛永十三年(1636)、この年は家康の二十一回忌にあたることから三代将軍家光公によって社殿の大造替が行われます。
これは伊勢神宮の式年遷宮に倣ったもので、この時に創建当初からあった社殿のほとんどが建て替えられ、現存の建物のほとんどが造営されました。
寛永大造替の総工費は約五十七万両。かり出された工人はのべ四百五十三万人以上におよび、作業の監視にあたった下奉行・役人だけでも四十四万人余にものぼるといわれています。

東照宮ははじめ東照社と呼ばれていましたが、正保二年(1645)宮号が朝廷より下賜され、東照宮と称することになりました。
この奉祝のため、翌三年四月の大祭に際し朝廷から臨時奉幣使が派遣され、以後慶応三年(1867)に至るまで、神忌の際には日光例幣使として勅使が派遣されることが通例となりました。
また、二代将軍秀忠以降、歴代将軍の参詣もたびたび行われました。
将軍の社参は諸藩の大名や多数の人足・雑兵らを伴い大々的に行われ、厳格な取り決めのもと、厳粛に祭祀が執行されたといわれています。
庶民の参詣も早くから許されたそうですが、一般庶民の入山には切手が必要で、仁王御門前番所へ届けて参詣したということです。

祭祀は山王一実神道の流儀に則って行われ、東照宮の主祭神には東照大権現が、配祀神には山王神・摩多羅神が祀られました。
山王一実神道とは、天台宗の総本山比叡山延暦寺で生れた神仏混淆の神道の流派、山王神道を、天海が独自に発展させたものであります。
天海はまた元和三年、東照宮鎮座と同時に建立された別当大楽院の社家を選出し、それ以後は明治の神仏分離に至るまで、大楽院社家が山王一実神道の流儀に基づき、東照宮の祭祀一切を取り仕切りました。

戊辰戦争に際し、旧幕府軍により東照宮神体が持ち去られたことがありますが、輪王寺宮が新政府軍に帰順したのち、無事日光に戻ってきました。
明治四年(1871)、明治政府により神仏分離が執行されると、日光山は現在の二社一寺に分立。主祭神の東照大権現は徳川家康公に、配祀神の山王神・摩多羅神は廃され豊臣秀吉公・源頼朝公に改められます。
同六年に東照宮は別格官幣社に列格し、戦後、社格制度が廃止されたのちは神社本庁の別表神社となりますが、昭和六十年(1985)に神社本庁を離れて単立の神社となりました。
平成十一年(1999)には「日光の社寺」の一つとして、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定。今日に至ります。

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