2013年6月17日月曜日

岩木山神社①伝説(1)

さてそれでは岩木山神社について書いていきたいと思いますが、資料が多いもので、何から書いていったらいいものかわからなくなりました。
岩木山神社の神体山は岩木山でありますが、そもそも岩木山がいつ頃から信仰の対象にされてきたかというと、それはおそらく文字以前の時代(おそらくは縄文時代)にまで遡るのであります。
そのように思うのは確たる証拠があってというわけではありませんが、岩木山の東南方の山麓に縄文時代前期から後期にかけての集落跡がいくつかあり、また現代の日本人の自然観や宗教観に照らし合わせてみて、岩木山周辺に住んでいた縄文人が岩木山を崇拝しない理由が特にないように思われるからです。
が、あいにくわたしは不勉強で縄文人の宗教観についてはよく存じ上げないので、そこらへんのところは適当に流しておきましょう。

縄文人のことはさておき、岩木山が古くから信仰の対象になっていたことは間違いがないようなのですが、津軽には藩政期以前の文献が乏しく、古くはどのような神が祀られ、信仰されていたかを証明する手立てがありません。
しかしながら、岩木山神社創立にまつわる伝説に、その一端を知る手掛かりがあるように思われます。

岩木山神社創立にまつわる伝説は、大まかにいうと以下の六つになります。

①安寿姫と厨子王丸にまつわるもの
②大己貴命にまつわるもの
③曼字(卍)・錫杖にまつわるもの
④鬼沢村の大人にまつわるもの
⑤小栗山の三姉妹の神にまつわるもの
⑥坂上田村麻呂にまつわるもの

まず①について簡単に説明しましょう。
安寿と厨子王というと、森鴎外の「山椒太夫」が思い出されますが、岩木山神社にまつわる安寿というのはまさにその安寿姫のことであります。
平安時代の永保年間(1081~1084)、磐城判官正氏の子安寿と厨子王は、母と共に、讒言により筑紫に流罪となった父のもとを訪ねる途中、人買いに騙されて丹後由良湊の山椒太夫の奴婢となりました。
小説ではここで、安寿が命がけで厨子王を逃がし、保護された先で、持っていた守り本尊の地蔵尊がきっかけとなって厨子王の身元が明らかになります。
長じて父と同じ国司に任じられた厨子王丸は、善政を敷いて、のちに佐渡で盲目の鳥追いに身をやつしていた生き別れの母と再会を果たしました。
岩木山神社創建にまつわる伝承はそれとは異なり、山椒太夫の奴婢となったのち、「艱難、呵責せられし後、安寿は津軽の岩木山へこもりて終いに神となり」(「岩木山考」弘前市民図書館蔵)というふうに、安寿姫はどういうわけか唐突に神になってしまうのであります。
わたしは「岩木山考」に直接あたっていないので、話が急展開すぎてよくわからないのですが、岩木山の神が女の神様であるということ、またその女神が安寿であるという考えはすでに藩政時代以前に成立していたといわれ、弘前藩二代藩主信枚は岩木山三所大権現(現岩木山神社)の山門に納められた五百羅漢の中に、安寿と厨子王の木像(現長勝寺蔵)を作って納めさせたり、領内に丹後の人が立ち入れば岩木山の神の怒りにふれるので必ず天候不順になるとして、出入りを厳しく取り締まったりしたそうです。
この伝承は、磐城と岩木が同音であるゆえ、のちに説経節「さんせう太夫」の舞台に津軽が当てはめられたもので、たぶんもともと岩木山神社の創建と「さんせう太夫」は関係がないだろうと思われます。
が、岩木山に女人が入って神になったという話や、安寿という名前はその他の伝説にも関わりがあるので、いちおうご記憶いただければと思います。

次に②について説明します。
文化八年(1811)に編纂された「岩木山縁起」によると、昔、この国(津軽)に大己貴命が降臨し、百八十人の子供を生んだそうです。
大己貴命が降臨した土地は肥沃で田の収穫が多く、子供たちがよく遊びよく育ったので、そこを阿曾部(あそべ、岩木山の古名)と名付けました。
ある時、大己貴命は田の中に白く光るものを見つけますが、よく見るとそれは沼であったので、それを田光(たつひ)の沼と名付けました。(※このへんは文意がわかりづらかったのですが、岩木山の上から俯瞰で田んぼを見ていると考えれば、なんとなく理解できると思います)
龍女があり、沼の中から珠を得て大己貴命に献ずると、命はたいへん喜んでこの珠を「国安珠」、龍女を「国安珠姫」と名付けて夫婦となりました。
ある時、大津波がやってきて、阿曾部(岩木山)の森だけ残ったので、頂上に磐椅宮(いわきのみや)を建てて国常立命・大元命・国安珠姫の三神を祀り、以て津軽一の宮と称しました。これが現在の岩木山神社であるということです。
これは大己貴命と土着の神(龍女)の婚姻譚とでもいうべきものでしょうか。
この伝説がいつ頃から伝えられているのかは不明ですが、この話からは中央勢力の介入や文化の流入があったことがなんとなくうかがわれます。
この話にはいろんな要素が含まれており、一言で説明するのがとても難しいのですが、龍女はおそらく水神であろうから稲作にも関係がありましょうし、また国安珠姫の発音は安寿姫にもつながるかと思われます。
ちなみに村上天皇の御代(950年頃)、丹後由良湊の海賊が国安珠を盗んで逃げたことがあるといわれ、やはりこの伝承にも①のように、丹後人が津軽に入ると天候不順を生じるという言い伝えがあるそうです。
また、岩木山の頂上に三柱の神を祀ったという話がありますが、これはおそらく熊野三山の形式を模したもので、岩木山神社成立の過程には修験道や密教の影響があるのだと思います。

つづいて③の説明に移ります。
かつて岩木山三所大権現(現岩木山神社)の別当院であったのは百沢寺という寺院の縁起に、曼字(卍)錫杖の伝説というのが載っています。
その昔、阿曾部(岩木山)に魑魅魍魎が住んでいて、民を大いに悩ましました。
そのことが都に聞こえたので、時の帝は近江国篠原(現滋賀県野洲郡野洲町)の領主、花輪某に詔して悪鬼の退散を命じました。
花輪某は熊野・住吉・天王寺の三所に祈願しました。
すると霊夢を得て、その夢告に従い越後国敦賀の湊から船で深浦の湊に入り、そこから津軽に至って岩木山に分け入り、悪鬼を探しました。
しかし悪鬼が姿を現さないので、先の三所に再び祈願したところ、「錫杖印、曼字旗を用いよ」という夢のお告げがありました。
夢告に従うと、悪鬼が姿を現したので、花輪某はこれを攻めました。
悪鬼の大将は降参して、今後人民に被害を与えず、登山の者を守護すると誓ったので、花輪某は悪鬼を許して岩木山右峰の赤倉岳に住まわせたそうです。
その鬼を祀る社ははじめ岩木山北麓の十腰内にあり(現巌鬼山神社)、その後託宣により百の沢を越えて南麓に移りました。ゆえに百沢寺という云々…。
このお話には、④と⑥に一部内容の重複がみられる箇所があります。
重要なのは、花輪某が熊野・住吉・天王寺の「三所」に祈願し、「曼字(=卍、吉祥・瑞兆を表す)」と「錫杖(法具)」の加護を得て、岩木山に住まう「悪鬼」を退散せしめたという点でしょうか。
後述しますが、津軽を治めようとする者は、岩木山の神霊なり悪鬼なりを調伏して支配下に置き、それを自分の後ろ盾にしようとする傾向があるようで、この話の類話として、津軽藩初代為信が曼字・錫杖の加護を得て津軽一統をなしたという話もあるそうです。
岩木山は津軽の象徴みたいなものですから、おそらくそれが民心を掌握し、当国を統治するためには必要な措置だったのだろうと思われます。

長くなったので、残りの伝説については次回説明します。

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