2013年6月18日火曜日

岩木山神社②伝説(2)

前回は岩木山神社創建にまつわる六つの主な伝説、

①安寿姫と厨子王丸にまつわるもの
②大己貴命にまつわるもの
③曼字(卍)・錫杖にまつわるもの
④鬼沢村の大人にまつわるもの
⑤小栗山の三姉妹の神にまつわるもの
⑥坂上田村麻呂にまつわるもの

のうち、①から③までを説明しました。
これら六つは互いに関連し合うものもあるので、一部内容に重複がみられることもあるかもしれませんが、ご了承ください。

それでは今日はまず④から説明していきます。
③では岩木山の悪鬼を曼字・錫杖の力を得て降伏させ、守護神となることを誓わせて岩木山右峰の赤倉岳に住まわせた話がありましたが、赤倉岳の鬼も岩木山神社創建にまつわる一つの要素となっています。
「岩木山縁起」に曰く、岩木山北の赤倉峰に木客(大人、鬼)が住んでおり、「徑行するもの口を緘ちて去る然らざれは則ち怪異」があったといわれています。
岩木山北峰の麓に鬼沢という村がありますが、ある日村人が畑を耕していると、木客がやってきて畑仕事を手伝ってくれました。
木客は村に水が少ないのを見て、水路を作ってやると言いました。
その翌日、村人が野に出てみると、「清水涓々として卑きより高きに登り昂低曲直数千頃に沃く水旱更らに涸れずして溢」れていたといいます。
そこで村人は木客を神として祀り、一祠を建てて鬼神宮と称して祀りました。
この鬼神宮というのは現在の鬼沢村(現弘前市鬼沢地区)の鬼神社のことであり、村にある逆流溝という水路はその木客(鬼)が作ったものであるといわれているそうです。
これはあくまでも「岩木山縁起」に載っている話で、鬼沢地区に伝わる話だともう少し長くなるのですが、ややこしくなるので、ここでは省略します。
このお話のポイントは、岩木山の赤倉岳に住む鬼(木客)が田や灌漑の手助けをしてくれたことだと思われます。
これは岩木山の神様が田の神だといわれる由縁の一つであり、山の神が山から下りてきて田の神になるという信仰を示すものであるとも思います。
また、赤倉岳の鬼(大人)は灌漑や農業に関わりがあるだけでなく、製鉄にも深い関わりがあるようです。
それについては余裕があれば後述します。

次は⑤について説明します。
これまで見てきたとおり、岩木山の神様は女の神様だとみなされるケースが多いようなのですが、津軽地方に伝わる伝承によると、この山の神は三姉妹の神様であるということです。
ある話によると、昔、三人の姉妹の神様が津軽にやってきて、それぞれ岩木山の主になりたいと願っていましたが、ある時、末の妹が抜け駆けをして勝手に岩木山の主の座におさまってしまいました。
長姉と次姉は怒りましたが、とりわけ長姉の神の怒りはたいへんなもので、末の妹の顔など見たくないといって岩木山の見えない小栗山におさまり(小栗山神社)、次姉は平賀町大坊に鎮座しました(猿賀神社)。
ゆえに小栗山村の人たちは、小栗山の神様に気を使って今でも岩木山神社に参らず、お山参詣にも参加しないといわれているそうです。
この話は民間伝承なので、末妹ではなく三姉妹の何番目の娘が岩木山におさまったとかなんとかで、いろいろバリエーションがありますが、大筋ではだいたい上記のようなお話が伝わっているようであります。
小館衷三『岩木山信仰史』によると、「小栗山神社は、熊野十二所権現を祭っていて、岩木山の祭と共通であるので、小栗山神社の参詣で済ませたことによるのであろうか」とのことですが、三姉妹のおさまった岩木山神社・小栗山神社・猿賀神社は、いずれもかつては神仏混淆して祀られてきた神社で、熊野信仰や天台宗、修験系の信仰の影響が強かったところであります。
また岩木山神社と猿賀神社に関しては、七日堂祭と柳からみ神事という共通する行事もあり、やはり何か姉妹的な繋がりがあるのかもしれません。
この伝説の類話としては、女の神様は二人の姉妹だったとか、その二人の神様というのは実は安寿と厨子王だとかいう話もあるようで、ほかの岩木山神社創建伝説とのほのかな繋がりも見受けられます。

それでは最後に⑥について述べていきます。
この話は③の曼字・錫杖の話とたいして変わらないのですが、いくつか異なる点があるので概要を書いてみたいと思います。
「岩木山縁起」に曰く、昔、東夷の国には山に邪神、里に姦鬼がいて、人びとにおおいに害をなしたゆえ、古くは田道上毛野田道将軍、阿倍比羅夫らがその平定にあたりました。
のち延暦年間(782~806)に征夷大将軍に命じられた坂上田村麻呂もまた、東夷を征討するために兵を興して岩木山に分け入りました。
兵は曼字の旗、錫杖印の戟をそれぞれ十二ずつ持って戦います。
将軍は毘沙門天の生まれ変わりで、戦に勝たないということはありません。
ある時、兵の飲み水が足りなくなると、田村麻呂は岩木山に祈り、錫杖戟を以て岩を穿ちました。すると、水が滾々と湧き出してきて、難局を乗り切る事ができました(現在の錫杖清水はこれであるということです)。
岩木山の姦鬼を退治した田村麻呂は、松代(現鰺ヶ沢町)に鳥海山永平寺景光院(現廃寺)、十腰内に巌鬼山西方寺観音院(現廃寺)、百沢村(現弘前市百沢)に岩木山百沢寺光明院(現廃寺)を建立したといわれています。
この百沢寺が現在の岩木山神社の前身であるということです。
坂上田村麻呂云々のくだりは伝説の域を出ませんが、岩木山神社創建にまつわる伝承としては、こちらの方がより具体的でしょうか。
またある伝によると、田村麻呂が姦鬼征討ののち岩木山頂上に奥宮本宮を建立。そこに鎮守府将軍であった田村麻呂の父の坂上刈田麿命を祀り、岩木山北麓(十腰内)に下居宮(現巌鬼山神社)を建立して祭祀を行いました。
下居宮はその後、寛治五年(1091)に神託によって百の沢を越えて南麓に移り、現在地に遷座。ゆえにこれを百沢寺と称したなどともいわれています。
岩木山神社はかつて神仏混淆して祀られ、のちにそれが分離せられたので、由緒に関してはいろいろややこしい点があるのです。
が、詳しい由緒ついては次回に譲ることにして、田村麻呂の伝説に戻ります。
この話のポイントも、やはり曼字・錫杖を以て岩木山の悪鬼を征討するところだと思われますが、津軽では「十二」は山の神様に関係する特徴的な数字で、山の神が嫌う数字であるそうですから、十二の曼字旗と錫杖戟でもって戦うというのも重要なポイントであると思います。
津軽氏の家紋は津軽牡丹というものでありますが、古くは紋形に曼字(卍)、幕紋には錫杖を用いていたといわれています。
これまで見てきたとおり、曼字・錫杖というのはおそらく岩木山の神霊を征服するために必要なもので、それを家紋として用いるということは、岩木山の神霊を征服し、その加護を受けているということの証なのでありましょう。
また、田村麻呂が毘沙門天の生まれ変わりである云々のくだりは、岩木山神社が北方鎮護の社として信仰されてきたことを示しています。

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