2013年6月21日金曜日

岩木山神社④由緒(2)

岩木山神社社殿については、文和三年(1354)に足利尊氏によって岩木山山頂に御室(本宮)が上げられたと伝えられ、また応仁三年(1469)に源行定・安倍助季、永禄三年(1560)には大浦為則が社殿を建立したなどと伝えられているものの、真偽については定かではありません。
岩木山神社に残る永正十四年(1517)銘の釣燈籠に「岩木山宝殿」という文字があり、少なくともその頃には堂社があったものと推測されていますが、その後天正十七年(1589)に起こった岩木山の噴火により、諸堂(大堂=現拝殿、僧坊など)が焼失したといわれています。

その後、津軽為信津軽一統ののち、慶長六年(1601)に下居宮(現岩木山神社本殿)を再建し、同八年には大堂(同拝殿)を再建しました。
このことは、津軽氏が岩木山神社を管理・支配しているということを衆人にアピールする、絶好の機会だったように思われます。
宗教勢力を支配下に置いて管理することは、民心の安寧、人の管理(戸籍)、都市計画(町割り)などを図るうえで政策上とても重要なことですが、岩木山神社に限っては、津軽の象徴たる岩木山の神霊を祀る社を支配し、その加護を自分が受けているのだということを示威する目的もあったのではないかと思います。
まあ、なにはともあれ、初代津軽為信の下居宮・大堂再建ののちも、津軽家歴代藩主らの庇護のもと、社殿の造営、修繕、寄進等をたびたび受けてきました。
こうして岩木山神社は、津軽氏の管理下にあって、神社としての体裁を整えていくのであります。

寛永二年(1625)二代藩主信枚の頃には、荒廃していた巌鬼山西方寺・鳥海山永平寺を再興して岩木山百沢寺に合併。岩木山三所大権現の形式を整え、百沢寺を同所の別当寺としました。
同五年、信枚は山門建立の工事を行い、門の内部に本尊の十一面観音と五百羅漢を安置させ、さらに大堂に弥陀・薬師・観音の三尊、ならびに四天王像を造らせたといわれています。
次の三代津軽信義は、寛永十五年に大堂の補修を行いました。現在の岩木山神社拝殿(大堂)はこの時に修繕されたものが元になっています。
また信義は、大堂の内陣にあたる御宮殿を建立しました。
御宮殿は信枚の造らせた三尊仏や四天王像を納めるための厨子で、現在は弘前市西茂森の長勝寺境内の蒼龍窟にて保存・公開されています。
次の四代藩主信政は神道を学び、自身が吉川神道の受伝者(奥義を授かった者)であったことから、神仏への崇敬が篤く、岩木山神社をはじめとする津軽領内の寺社の整備・寄進を積極的に行いました。
信政が行った事績のうち最も重要なものは、貞享三年(1686)から元禄七年(1694)にかけて行われた下居宮(現本殿)の大改修で、これは下居宮の移動(元の下居宮は現本殿鎮座地より西に70mほど離れた場所にあったという)を伴う大規模なものであったといわれています。
この時の大改修により、現在の岩木山神社境内の結構が整いました。
総工費は十八万両にのぼるといわれ、社殿結構は日光を手本にして造られたので、「奥の日光」などとも称されたそうです。

その後も津軽家歴代藩主による社殿の修復・造立などが度々ありました。
現存する岩木山神社の棟札で、最古のものは慶長六年(1601)藤原為信(津軽為信)が下居宮を再建した時のものでありますが、それを含めて津軽家歴代藩主の名が記された棟札は十六枚あります。

一覧にするとこうです。

①慶長六年(1601) 下居宮再建 施主:藤原為信(初代)
②慶長八年(1603) 大堂造立 施主:藤原為信
③寛永六年(1639) 虚空蔵堂草創 施主:津軽信枚(二代)
④寛永十七年(1640) 精舎建立 施主:津軽信義(三代)
⑤万治二年(1659) 下居宮再建 施主:津軽信政(四代)
⑥元禄七年(1694) 下居宮再建 施主:津軽信政
⑦享保四年(1719) 山門葺替 施主:津軽信寿(五代)
⑧享保九年(1724) 精舎建立 施主:津軽信寿
⑨宝暦十一年(1761) 虚空蔵堂他修補
⑩明和二年(1765) 精舎 施主:津軽信寧(七代)
⑪享和元年(1801) 神楽殿修復
⑫享和三年(1803) 山門修復 施主:津軽寧親(九代)
⑬文化元年(1804) 下居宮修復 施主:津軽寧親
⑭天保十二年(1841) 神楽殿修復
⑮嘉永七年(1854) 精舎建立 施主:津軽順承(十一代)
⑯元治元年(1864) 下居宮修復 施主:津軽承昭(十二代)

これらの棟札から、明治に至るまで津軽藩歴代藩主の岩木山神社に対する崇敬が篤かったことがうかがえると思います。

その後、明治に至り、津軽にも廃仏毀釈の波がやってきました。
岩木山神社では、明治三年(1870)頃から明治新政府の方針に従い廃仏毀釈の実施が行われました。
大堂の御宮殿ならびに三尊仏、山門の安寿と厨子王像ならびに五百羅漢のうちの約100体ほどが弘前市内の長勝寺に移され、岩木山山頂の御室に安置されていた本尊の聖観音像は大鰐町の専称院に移されたといわれています。
社号は明治四年に旧称の岩木山三所大権現から現在の岩木山神社に改められ、同六年には旧社格制度における国幣小社に列せられました。
また別当寺の百沢寺は神仏分離に伴い廃せられましたが、その本坊は現在も岩木山神社社務所として保存・利用されております。

御祭神はかつては岩木山の三峰に三尊の垂迹神、国常立命・大己貴命・国安珠姫命を祀っていましたが、現在は顕國魂神・多都比姫神・宇賀能売神・大山祇神・坂上刈田麿命を祀っています。
顕國魂神は大己貴命と同一神で、多都比姫神(たつひひめのかみ)もまた田光沼(たつひぬま)から珠を取って大己貴に献上した龍女・国安珠姫命と同一神であるので、岩木山の伝説に則した御祭神ということになるでしょうか。
宇賀能売神は食物・穀物の神、大山祇神は日本神話の代表的な山の神で、坂上刈田麿命は岩木山神社創建伝説にまつわる坂上田村麻呂の父であります。
北門鎮護の社、農業・漁業・商工業・医薬・交通関係、とりわけ開運の福の神として崇敬が篤いそうです。

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