2013年7月15日月曜日

立石洞穴遺跡

平内町の東滝集落の北端に安井崎という岬があり、近くに漁港がありますが、そこから青森県道9号夏泊公園線を通って北に800mほど進むと、県道沿いに剥き出しの岩盤が現れ、その傍らに鳥居が立っているのが見えてきます。


わたしが行きたかった場所というのはここです。
今年の五月に椿山に行った帰路、平内町民バスの車窓からこの景色を見てふいに思い出したのは、去年沖縄で見た御嶽でありました。
何か惹かれるものを感じ、ぜひ再訪してみようと思っていたのでした。

この岩は立石といって、道路から見える部分はほんの数メートルほどですが、高さ約30メートル、幅は15メートルほどもある大きな岩であります。
その名の通り、岩(石)を立てたような形をしているから立石なのでしょう。
いろいろ調べてみると、どうもこの岩には洞穴が開いているらしいのです。
わたしは洞穴も立石の全容も見てみたかったので、道路脇から20mほど斜面を下り、下の海岸に下り立ってみることにしました。
※斜面には途中までロープがありますが、道らしい道は無いので、もし見てみたいという方は自己責任でお願いします。


ゆっくりと慎重に斜面を下っていきます。
このあたりの地質は古生層、石灰岩から成るということだそうですが、わたしが沖縄で見た御嶽は琉球石灰岩で築かれていたり、琉球石灰岩の岩の上に築かれていたりしていたので、雰囲気としては本当によく似ています。


下に到着しました。
こちらが北側から見た立石。


そして、こちらが南側です。


洞穴はこちらの南側にありました。


この洞穴には伝説があって、ある時、洞穴の中にカレイ(鰈)をくわえた猫が入っていき、そのまま行方不明になった。数日後、その猫が発見された場所が現青森市浪岡の王余魚沢(かれいざわ)であったといわれているそうです。
また、この洞穴は平内七不思議の一つといわれ、奥に入っていくに従ってだんだんと狭くなり、誰も奥を極めた人がないともいわれています。

と、まるでアンブローズ・ビアスの失踪事件のような伝説が残っている立石洞穴ですが、昭和三十年代に平内郷土史研究会の田中忠三郎氏らが行なった調査によると、洞穴内は高さ約2メートル、奥行16メートル余であったといいます。
縄文早期中葉から始まり中期に終った、地球の温暖化による海水面の上昇によって浸食されてできた浸食洞と考えられているようです。
この時の調査では、主に縄文後期のものと思われる土器数片や石器、骨角器などのほか、多量の貝殻、鳥骨、木炭数片などが見つかったそうですが、昭和二十年頃に日本軍により火薬貯蔵庫として洞穴内部が排土整理されたため、それによる遺跡の破壊が著しかったといわれています。
人骨も発見されたそうですが、排土整理の際に遺棄されたということです。

人骨や生活用具としての土器、石器が出土されているものの数が少なく、また人が生活していたと思われる遺構の発見がないことから、この洞穴は一時的な宿泊所のようなものであったでのはないかと考えられているそうです。
菅江真澄「つがろのおく」寛政七年(1795)三月二十三日の条に、このような記載がありました。

鎧崎(よろいざき)の阪をなからばかりくだれば、むかふ磯辺に、たかうなの如く、しらいはの立てり、名を立石といふは世にことなる姿せり〔天註――立石の高さ、五丈あまりにや過ぬらんかし〕。下つかたにいはやあり、うちまひろくして、かたゐ(乞食)など行くるれば、此いはむろに泊すと云ふ。そとさしのぞけば、うち、ほのぐらきに、はら白きけだものふしぬ。こは、あら熊にやと、あないも、たましゐを飛してにげしぞき、身に汗あへり。

昔から仮宿にはうってつけの洞穴だったようですね。

なお、岩の上にある祠には大龍王大神の扁額がありました。


いつ頃建立されたものかは不明ですが、先に引用した菅江真澄の「つがろのおく」には特に記載がありません。
沖縄の御嶽に似てはいますが、この岩そのものが信仰の対象にされてきたということではなかったようです。

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