2013年7月5日金曜日

高照神社①由緒

高照神社は中津軽郡岩木町高岡字神馬野87に鎮座しています。
正徳年間(1711頃)に弘前藩四代津軽信政の廟所として建立された社ですが、そもそも神社のある高岡の地には、古くから春日四神(天児屋根命・武甕槌神・伊波比主神・比売大神)を祀る小社があったそうです。
津軽氏は藤原氏の流れを汲むとされていることから、信政は藤原氏の氏神であるこの春日明神を篤く崇敬していたといわれています。
信仰心の篤い信政は、幕府の神道方吉川惟足に師事し、その奥儀を授けられるほどの者でしたが、弘前藩経営の精神的拠点となる、吉川神道に基づいた神社の建立を企図し、宝永五年(1708)に高岡の地を社地として選定しました。
しかし神社建立の願いは生前には果たせず、同七年に信政は没します。

五代藩主信寿は正徳元年(1711)、信政の遺言に従って春日神の小社の後林に遺骸を神式で埋葬し、さらに翌二年七月に高岡霊社(吉川惟足命名の高照神社の旧称、現本殿)を造営して、相殿に信政の神霊を祀りました。
これが、高照神社のはじまりとなっています。
社地は元は葛原村という村に属していましたが、のち百沢村に編入され、正徳二年七月二十六日に藩命により高岡と称するようになりました。
これは高岡霊社にちなんだもので、高岡というのは弘前の古名でもあります。
信寿はまた、享保六年(1721)門前の屋敷割りを行い、高照神社を守るために葛西家を筆頭に福士家、桜庭家、高木家、鎌田家、石川家、小倉家、黒石家、三国家、安倍家ら十二家を派遣しました。
これが現在の高岡集落の元になっているそうです。
以来、「高岡様」と尊崇され、江戸時代には藩から特別な扱いを受けました。
藩士は祭日には拝礼を欠かさないといわれたほどで、俗に岩木山神社は庶民が参る神社で、高照神社は侍が参る神社だといわれていたそうです。

その後、七代藩主信寧が拝殿を、九代寧親が随神門や廟所門を整備しました。
社殿配置は鳥居、随神門、拝殿・幣殿が東西に一直線上に並び、廊下を挟んで中門から本殿に至り、さらにその西方(本殿後方)200mほどのところに信政の廟所と墓所がある独特の構成となっています。
こうした社殿の配置は、吉川神道に基づいたものだということです。
※社殿については後述します。

のち明治初年に社号を現在の高照神社に改称し、同六年(1873)白沢村(現中津軽郡西目屋村)と新法師村の大山祇神社、松代村(現西津軽郡鯵ヶ沢町)と百沢村の少彦名神社、大秋村(現西目屋村)の鹿島神社、嶽村の稲荷神社、常盤野村の山神など、周辺の神々をを合祀して郷社となりました。
さらに同九年には津軽為信を合祀、同十三年には県社に列格しています。
戦後、社格制度が廃止されたのちは神社本庁に属し、現在は高岡地区の産土神として篤く崇敬されています。
祭神は天児屋根命、武甕槌命、比売大神、伊波比主神の春日四神に、少彦名神、大山祇神、ならびに津軽為信命、津軽信政命。
祭日は七月二十一日となっています。


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