2013年10月11日金曜日

光明寺②光明寺にまつわる伝説

わたしが光明寺に行こうと思った理由の一つは、この善導塚にありました。


善導大師は中国唐代に活躍した浄土宗(中国浄土宗)の高僧で、宗祖法然上人はこの善導大師の教えに導かれて浄土宗を開いたといわれています。
光明寺の開山良忠上人もまた善導大師の教えに深く帰依し、この地に光明寺を開くと、善導塚を作って大師を顕彰しました。
この銅像は、寛文三年(1663)に当寺の第四十一代玄誉知鑑上人によって造立されたものだといわれています。

善導塚を見たかった理由、それは、この塚が江の島の弁財天と関わりがあるらしいということを、本で読んで知ったからでありました。
光明寺の大殿(本堂)右檀には、善導大師等身大立像と弁財天像が安置されていますが、その弁財天像は、元は江の島の弁財天だったというのです。

伝説によると、昔、この寺の善導像は毎夜本堂を抜け出て、道を行く善男善女に説教をしていました。
それを伝え聞いた江の島の弁財天は、ある夜、善導の説教を聞きにきました。
聞きしにまさる善導の説教に心を打たれた弁財天は、そのうち毎夜のように光明寺へ通うようになり、ついに江の島へ帰らなくなってしまいました。
弁財天がいなくなった江の島では八方に手をつくして弁財天を捜し、やがて光明寺にいることがわかったので、弁財天を返してもらいました。
しかし弁財天は、その後も光明寺へやってきたので、寺では堂宇を建立し、善導像と弁財天の二像を安置することにしました。
この堂宇というのは、かつけ境内にあったという二尊堂のことです。
やがて江の島の方でもついに諦めて、新しい弁財天を作ることにしました。
善導像が説教をした場所は、善導塚のあるところ(※総門の右側あたりにあったともいわれている)だったということです。

あくまで伝説のことですので、まさか本当にこの寺の善導像が本堂を抜け出て辻説法をしていたとは思いませんが、江の島の弁財天に関わるものとして個人的に非常に興味をひかれたので訪ねてみた次第でした。

さて、光明寺本堂の右手には繁栄稲荷神社という小さなお社がありますが、ここにも伝説が残されていました。


当寺の開山良忠上人は、現在地に光明寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住んでいましたが、その時に子狐を助けたことがあったそうです。
すると上人の夢に親狐が現われ、お礼とともに薬種袋を残していきました。
その後、鎌倉に悪病が流行した折、上人は夢の中で親狐が教えた通りに薬種を蒔くと、種は三日のうちに成長し、この薬草を服すると薬効直ちにあらわれ、病魔はたちまちのうちに退散したといわれています。
のち、狐の教えによって病魔を退散せしめたとして、この狐を稲荷大明神として当寺に勧請し祀りました。
それがこの繁栄稲荷神社だということです。

この伝説によく似た話が、左介ヶ谷(現佐助ヶ谷)の佐助稲荷神社に残されておりますが、どちらかというとそちらの方がオリジナルで、良忠上人に関わる伝説の方は、上人がかつて左介ヶ谷に居住していたことにちなみ、後世になってから元のお話に上人が関係づけられて語られたものではないか思います。
それについては、のちほど佐助稲荷の項で書きたいと思います。

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