2014年5月28日水曜日

円覚寺③円覚寺奉納海上信仰資料

これまで、たびたび「円覚寺奉納海上信仰資料」というのが出てきましたが、今日はそれについてまとめてみますね。

深浦湊は古くから北前船の中継地、風待ち湊として栄え、円覚寺は航海の安全や商売繁盛を祈願する船乗りたちの信仰を集めてきました。
船乗りたちは、海上安全を祈願して絵馬や額を多数奉納。
これらのうちで最も古いものは、寛永十年(1633)越前国敦賀の庄司太郎左衛門が奉納した船絵馬で、当時の海上交通の様子や廻船の状況、海上信仰の様子などを知るうえで重要なものであるということから、昭和五十六年に「円覚寺奉納海上信仰資料一〇六点」として、国の重要有形文化財の指定を受けました。

文部省による指定理由は、詳しくは以下の通りです。
津軽の風待ち避難港として知られる深浦の円覚寺に奉納された海上信仰資料で、船絵馬七〇点、髷額二八点等からなる。
これらの船絵馬は、そのほとんどが北前船と呼ばれる当時の輸送船の航海安全を祈って奉納されたもので、天保七年(一八三六)以降、明治二十九年(一八九〇)に至る年代の絵馬が数量的にもよくまとまって残されている。
また、越前敦賀庄司太郎左衛門が寛永十年(一六六三)に奉納した船絵馬は、北前船の前身の北国船の珍しい遺例で、帆と櫂を併用して航海する中世的な性格の輸送船のさまがよく描写されている。
髷額は、天保九年(一八三八)から明治十五年(一八八二)に至る年代のもので、船乗りたちが海難に際して髷を切って祈り、一命をとりとめた後に感謝の気持ちをこめて奉納したものである。
船絵馬や髷額が数量的によくまとまって奉納されている点では、類例が少なく、江戸時代から明治の中頃までの船による人や物資の輸送に関連した信仰の様相を示すものとして重要である。
なお、106点の資料の詳細な内訳については、
・船絵馬 70点
・髷額 28点
・梶雛形 2点
・その他 6点
となっております。

船絵馬で奉納年がわかっているもののうち、最も古いものは先述の寛永十年(1633)のもので、あとはみな天保年間(1830年代)から明治期(1890年代)にかけてのものであります。

また、奉納者の出身地を現在の都道府県・市町村名に直すと、
・北海道(爾志郡・函館市・檜山郡・松前郡)
・青森県(深浦町・鰺ヶ沢町・むつ市・五所川原市・八戸市)
・秋田県(秋田市・大館市・男鹿市・能代市・山本郡・由利郡)
・山形県(酒田市・鶴岡市)
・宮城県(仙台市)
・新潟県(佐渡市・胎内市・新潟市・三島郡・村上市)
・富山県(富山市)
・石川県(七尾市・輪島市)
・福井県(小浜市・坂井市・敦賀市・南条郡)
・大阪府(堺市)
・島根県(出雲市)
というふうになっておりました。

これを地図上で記すとこうなります。


これは、あくまで絵馬に国名の記載があるものだけなので、本当はもっと範囲が広がるかもしれませんが、八戸市と仙台市を除いて、ほかはほぼ北前船の日本海航路上の港に集中していることがわかります。
こうしてみると、いかに深浦湊に全国から多くの人と物が集まり栄華を誇ったか、円覚寺がいかに崇敬を集めたかがわかるというものです。
今は普通のさびれた田舎の漁村なんですがね。

次は円覚寺奉納海上信仰資料106点のうち28点を占める髷額について。

これは先ほどの旧文部省の国指定有形民俗文化財の指定理由の項にもある通り、「船乗りたちが海難に際して髷を切って祈り、一命をとりとめた後に感謝の気持ちをこめて奉納したもの」であるとの由。
前に復興弁財船「みちのく丸」の船内を見学した際にボランティアスタッフの人に聞いたところによると、弁財船(北前船)は動力が大きな帆一枚のみであるため、舵取りが非常に難しく、少しでも風が強い場合は、帆を畳んで何日でもじっと風と波が治まるのを待たなければならなかったということでした。
航海は死の危険を伴うものでしたが、船乗りたちは巨利のために決死の覚悟で船出をし、危機に際しては必死に神仏にすがったのです。

久生十蘭「藤九郎の島」という小説があります。
これは大まかにいうと、享保四年(1719)九十九里浜の沖合でにわかに発生した猛烈な時化のため、絶海の孤島(今の伊豆諸島の鳥島)に流れ着いた遠州新居(現静岡県湖西市新居町)の交易船の乗組員たちが島から脱出するまでの奮闘記なのですが、その中にこんな一節がありました。
檣を倒し、たらしをするようになればもう最後なので、あとは船の沈むのを待つばかりである。十一人の乗組みは、思い思いに髷を切って海に捨て、水死したあとでも、一船の仲間だとわかるように、一人一人の袖から袖へ細引をとおしてひとつにまとめ、水船みずぶねにしたまま、荒天の海に船を流した。
これにもあるように、元は海難に際し髷を切って海に投げたのでしょう。
で、推測になりますが、おそらくこれには人柱的な意味があったのです。
しかし命あっての物種、いちいち天候が荒れるたびに人身御供を捧げていては、船の漕ぎ手がいなくなってかえって危ないので、そのかわりに髷を切って海に捧げるようになったのではないかと思います。わかりませんが。
そしてついには、髷は海に捧げるものではなくなって、海難から救われた時に寺社に奉納するものになっていったのでしょう。
助かったらこれを奉納するのでなんとかしてください、みたいな、ようするに願掛けのような感じです。

あいにくわたしは髷額の現物は見ていませんが、ネット上にある画像を見る限りでは、それはそれはもう、とても生々しいものでした。
あれは生への執着そのものといっても過言ではありません。
そういう決死の信仰があって、そして日本の海運を支えていたのです。

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