2014年5月17日土曜日

関の古碑群

それでは関の古碑群について書きたいと思いますが、その前に、中世に津軽の西部を中心に活躍した安東氏について少しお勉強してみましょう。

安東氏の出自ははっきりしていませんが、一説には前九年の役で敗れた安倍貞任の遺児高星丸(たかあきまる)を祖にするといわれています。
高星丸は貞任軍の残党の手により藤崎(現藤崎町)の地に落ち延び、長じて寛治六年(1092)藤崎に築城して、安東氏を名乗ったといわれています。
のち鎌倉時代の初め頃、安東氏は蝦夷管領に任じられ、外ヶ浜から北海道の南部までを支配するようになり、次第に勢力を拡大していきました。
さらに、当時天然の良港として栄えていた十三(現市浦村十三)の豪族十三秀直を滅ぼすと、肥沃の地藤崎と良港十三を足がかりに、いよいよ絶大なる勢力を得るに至ったのでした。

ところで、安東氏は所領の拡大に伴って、多くの支族に各々の勢力が及ぶ範囲の土地を支配させたといわれています。
しかし、やがて支族の勢力が宗家の力をしのぐようになると、様々な問題が生じていき、双方の間の溝が徐々に深まっていきました。
安東宗家と支族の対立は、蝦夷地で起こった反乱を鎮圧できなかったとして、安東宗家を蝦夷管領職から免じ支族の安東季久にその職を与えたことにはじまり、のち現在の下北地方の所有権をめぐってさらに激化しました。
両者は互いに時の執権北条高時に訴え、幕府の裁定によりこの内紛を解決しようとしましたが、幕府は明確な裁定を下さず(一説には双方から賄賂を受け取り結論を先延ばしにしていたと伝えられている)、しびれを切らした両家の諸豪族はそれぞれに城を構えて武力によって紛争を解決しようとしました。
これが世にいう安東氏の乱で、この時、安東支族が城を構えたところが、現在の深浦町関にある折曽関(甕杉のすぐ近く)だといわれています。
この騒乱は、結局和睦という形(蝦夷管領職を宗家に戻すなど、やや宗家側に有利な形)でけりがつきましたが、六年間もの長きにわたり一地方の騒乱を鎮圧できなかった幕府の弱体ぶりがあらわとなり、このことがのちの鎌倉幕府の滅亡と南北朝の分裂につながったともいわれているそうです。

このあとも両家の間でいろいろあったようですが、長くなるので割愛します。
南北朝の騒乱では宗家が南朝方に、支族の一部が北朝方につきました。
やがて北朝方の足利尊氏が室町幕府を開きますが、津軽地方には一時、南朝方の残党が落ち延びて一大勢力をなし、その影響によって北朝側の安東支族は勢いを失って、時節とは逆に衰退していきました。
また、南朝方についた安東宗家もやがて幕府による追討をうけて津軽の地を追われ、一部が北海道や秋田に流れて衰退していったといわれています。

ここで、甕杉に傍らにある古碑群の話に戻ります。
この古碑群は、甕杉周辺の田畑などから出土した42基の板碑を一ヶ所に集めたもので、最も古いものは暦応三年(1340)、新しいものは応永八年(1401)の銘があります。ちなみに暦応は北朝側が使っていた年号です。
碑面に安倍の名がみえることなどから、安倍一族、すなわち安東一族の供養のために建立されたものだと考えられています。
また、碑面の人名には「阿弥」号が使用されているものもあるため、宗派的には時宗の影響を受けていると考えられているそうです。

それにしても、中世の板碑は弘前あたりでたまに見かけることがありますが、数量的にこれだけまとまっているのは見たことがありません。
かつてこの地で活躍した安東氏の存在というものをひしひしと感じますね。
これら関の古碑群は、昭和三十年に県史跡の指定を受けています。

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